いつも夢幻能のイメージでとらえての上演です。死者は登場しませんが、ラストのイメージはまさに<成仏>とあいなります。
<フェイド・インの演劇>
俳優はすべてあらかじめ舞台のどこかに存在し、役を演じる場合はその役にフェイドインしてから演じられます。演じていることを演じていることとしてあらわにするというか、なにせ舞台は<リアル>なものではないし、<リアリズム>で装うものでもなく、<ドラマの本質>を築きあげるべきためのもので、それさえ舞台にあれば、ウソ臭い本当らしさは全くもって不要であります。<ドラマ>は<ドラマ>であって、<役者>は<役者>そのものでしかなく、<エンゲキ>は<エンゲキ>という表現手法を最大限に活用できてこそ<エンゲキ>といえるのではないでしょうか。独自な演技法もいつもどおりです。
<批評する側とされる側(劇評のことではない)>
山吹の花のカタチには株により<正常な>花と<それとは異なる>花があるそうです。また<山吹色>の花と<白>い花という色の違いもあるのだそうです。本当でしょうか。<実を結ぶ>花と<実を結ばない>花とがあるのだそうです。これは本当です。山吹という植物はなぜだか知らないけど、そんな植物らしい。しかしみな山吹は山吹です。私には、異なるふたつのタイプが互いに批評しあっているというふうに感じられます。批評しあえない世界こそ暗黒で、その暗黒の世界の物語こそ泉鏡花作「山吹」だと思います。洋画家のいう<仕事>とは、芸術家の視点で世界を批評すること、それに違いないのです。
そして私たちの劇場にも<世界>があって、演者と観客という異なる立場の者たちが互いに存在することで、<世界>をまるっきり信じ切り鵜呑みにするわけではなく、批評的な視点を求めあう。少なくとも私は求めます。私たちの生きて生活している社会が、どのようなものなのか、今何が起こっているのか、どうあるべきなのか、どうしてゆかなければならないのか、正しく社会に向ける目線の必要なことに気付かされ、考えること、つまりは<思想>を持つことの必要性を「山吹」という作品は突きつけます。
2007年11月 ♯45「夜叉ヶ池」より ラストシーン