2008年05月27日

演出家より その3〜登場人物について

<洋画家 島津正>
 一貫して傍観者といえる。エロスのカタマリとなった縫子のアクションに対しても、終始距離をとりつづけ、さながら能のワキという存在だ。「山吹」もまた夢幻能ととらえることが可能かもしれない。
 今までの上演では失笑を買うと聞かされているラストのセリフも、画家が縫子と人形使の<女>と<男>の異様なカンケイ、<エロス>の発露を目の当たりにすることによって、芸術家として<ニンゲン>の、あるいは芸術の深遠というか、より本質的なものを獲得したうえでのセリフであるという着地のさせ方が必須であろう。鏡花氏の描きたかった思想にほかならないと考える。だから失笑されてはならない。

「うむ、魔界かな、此は、はてな、夢か、いや現実だ。―(夫人の駒下駄を視る)ええ、おれの身も、おれの名も棄てようか。(夫人の駒下駄を手にす。苦悶の色を顕しつつ)いや、仕事がある。(其の駒下駄を投棄つ。)」


<小糸川子爵夫人、縫子>
 もはや常人には計り知れない女性性をもつ。しかしこういう人物は鏡花氏の小説にはよく出演してます。例えば、「外科室」の貴船伯爵夫人。映画では吉永小百合が演じたことによって、なんか清純なイメージを植えつけられますが、実質的には(吉永小百合が演じたにもかかわらず)<エロス>に淫した狂人です。
 熱いマグマと燃えさかる洋画家に向けられた<エロス>も異常ですが、その爆発の裏には、社会における<女性>の悲劇が重要なエネルギー源となっているようです。発表誌が「女性改造」であるという事実も見逃せません。鏡花氏は発表誌を意識して作劇したのでしょうか。女性差別など今でいう<ジェンダー>についての芝居であるかのようです。


<人形使 辺栗藤次>
 またしても植物に由来する名前の持ち主です。鏡花氏の作品には、まことに多い。そしてその人物は、名の通りというか、<ニンゲン社会>とはある種隔絶した生き方をしているようです。現世と別な世界との媒介者としての役目を負っています。人形使は若い頃、女性たちを暴力で犯し、かつ殺しているようです。その後悔と贖罪のため静御前の人形に仕え、美しい女性にせっかんを受けることを強く欲している。人形使と縫子が結びつくことで、縫子は「世界の女にかはつて、私が其の怨を晴らしませう」という。これはもはや<エロス>による社会批評であると思います。ふたりの道行きのごとき退場のシーンの後には、鏡花氏の、特異な<エロス>へのとらえ方、すなわち彼独自の思想と、鋭い<社会批評>が巨大な姿をあらわすようです。


2007年11月 遊劇体♯45「夜叉ヶ池」より


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posted by 遊劇体ニュース at 17:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ♯46「山吹」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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